2010-2012年、MIT Sloan MBAプログラムに留学していました。アカデミックな話題から、ボストン生活、趣味まで、日々感じることを書いています。

August 26, 2013

訓練場としてのMBA

MBAとは何をするところか。前回のポストでは、本では学べない要素として、主に日本人的な側面からの効果について書いたが、今回は、恐らく全ての人種にとって当てはまる、プログラムが参加者に提供する機会という観点で書いてみる。

1. 意思決定の訓練場
MBAのクラスでは、とにかくたくさんの意思決定をさせられる。時間と情報が限られている中で、何か答えを出す。その訓練をひたすらさせられる。レクチャー型の授業も、結局は意思決定のサポートのために行われる。つまり、セオリーを学ぶのは、正解があるものには早くたどりつく力を得るためである。そして、ケースディスカッションや、ケースを使ったプレゼンテーションでは、実際に自分の意思決定を披露し、教授やクラスメイトからのフィードバックで議論を積み上げていく。MBAは、そうした意思決定の訓練機会を提供する。

2. リーダーシップの訓練場
MBAは、特に授業外でリーダーシップポジションを山ほど提供する、そこでヒエラルキーなしで物事を動かしていく経験をする。クラブのリーダーとか、カンファレンスやスタディツアーの企画とか、生徒会とか、寄付金のファンドレイズとか。たとえば、アメリカの全寮制の中学や高校で、アメリカ人と共に生活して、アメリカ人を仕切った経験がないと、アメリカの組織を中枢レベルで引っ張るのは難しい、とも言われる。別にアメリカに限らず、それを身に着ける恐らく最後のチャンス。これも学校という形態が提供する機会のひとつ。

3. 視野と価値観を広げる訓練場
MBAでの生活は、国籍・キャリアバックグラウンド・文化が異なる仲間との協働の日々。学校がダイバーシティを重視する意味は、いろんな奴を同じ箱に入れといたら、それだけで何か起きるだろう、という考え。そこで、ストレスをかけて、ぶつかりながら、異なるものをそのまま受け入れる力、人間の度量を増す訓練を自然と繰り返す。その経験が、そこで学ぶ人たちの将来のフィールドをグローブにする。

改めて自分の経験を振り返ると、MBAプログラムでは、グローバルリーダーを本気で作ろうと思っているんだなと感じる。決して就職予備校ではないし、ましてや語学学校ではない。これは特に卒業して1年経って、ああ自分はあの時訓練をしていたのだなと感じる。これからMBAを志す人でも、そうした視点を持つと目的がクリアになりやすいと思う。

August 19, 2013

MBAは本で学べるか

MBAの知識はすべて本で学べるという人に。

たしかにMBAの知識は本で学べるかもしれない。Sloanでは、例えばノーベル賞学者の講義を聞くと、やはりただ本を読むのとは違うと感じたが、これって野球はスタジアムに行かずともテレビで見れる、とか、音楽はライブに行かなくともCDで聴けるとか、まあそんな議論と一緒です。スタジアムでの野球観戦経験を本気でテレビ中継の視聴経験と並べる人はそんなにいないと思うけど、MBAに対しては厳しい目を向ける人もいる。全部本で学べるから行く意味ない、その知識も実業じゃ役に立たない、という具合。

しかし、知識を得るための環境がリッチであるのもさることながら、自分の経験では、MBAで学ぶことは実は知識ではない。それではいったい何を得るのか。このへんはあまり一般化されている訳ではないので、場合によってはすべての人(特にアメリカ人)に当てはまるものではないが、いわゆる私のような日本人には少なからず言えることだと思う。

1. ハートの強さ
 非アメリカ人にとって、米国MBAでの2年間はアウェイで戦う時間になる。この経験は、とても人を成長させると思う。一言でいうと、サバイブする力。まず第一に、とても恥をかく機会が多い。なんならコミュニケーションの授業で即興でプレゼンテーションをしろと言われただけでも、全身から汗が吹き出し、もちろんたどたどしい言葉で散々なプレゼンになる。プロジェクトでコールドコールで地元企業を訪問してこい、と言って突き出されても、「We are MIT students and...」なんて言っているうちにお呼びじゃないと言われて帰されてしまう。そしてこれも何度か書いていることだが、バーに行ってもなかなか相手にされず、うまく輪に入れない。言葉は本当に習得が難しいが、それにめげず、少なくとも自信を持った振る舞いをしていないとやっていけない。これを乗り越えて大勢の前でプレゼンをし、バーでも逃げられず、また学校のプロジェクトでもふつうに声がかかるようになったのは、大きな自信になった。そしてこの先どんなところに行っても、何とかしてやろう、何とかなるだろう、という気持ちができる。ということで、ハートが強くなる。

2. スタンスを取る力
 授業では、ケースを使ったディスカッションを多く行う。そこでは、自分がケースの主人公(社長や事業責任者)になったとして、あるビジネス上の決断を迫られる。どんなに情報が足りなくとも、どんなに前提知識がなくとも、「俺はこっちにする」とスタンスを取って、そこに理由をつけなくてはならない。どちらにも決めない評論家的な発言は評価されない。言ったら教授やクラスメイトから叩かれるかもしれないが、それでもYesかNoかを自分で決め、説明することが重要。人は、組織は、論理によって成功の確率が最も高いものを選択し、何を選ぶのか目に見える形で、意思決定しなければならない。そこに妥協はない。で、それだけ真剣に選んだオプションだが、実際には絶対的に正しい選択なんてない。どちらでも成功する場合もあるだろうし、どちらを選んでも結局ダメということもあるだろう。肝心なのは、正しい選択をすることもさることながら、その選択を成功にするためのその後の努力も同じくらい大切ということも実は同時に学んだ。これは疑似とはいえ自分で決断を繰り返したからこそ腹落ちしてきた感覚かもしれない。ということで、周囲にスタンスを取り自分で意思決定する力が増す。

3. 夢の大きさ
 スタートアップや、はやりのソーシャルアントレプレナーシップなど、名前は何でもいいが、世界はこんなに広いんだ、世の中には社会にインパクトを与えるためにこんなやり方があるんだ、という感覚を腹に落とすことができる。学校には文字どおり業界の第一線で活躍しているリーダーが多数訪れる。で、トップを見せつけられてリミッターが振り切れて思考の枠がストレッチする。突き抜けてるアントレからP&Gの社長まで、その範囲は広い。CEO Perspectivesという授業では、文字通り毎週どこかのCEOが来てスピーチをする。P&Gの目標は地球上の全ての人に自社商品を届けることだとか、NY Timesがいかに紙からインターネットに舵を切って世界をターゲット市場にしたとか、いまや中国からも巨大な売上を上げるNBAがどう世界戦略を立てているかとか。そしてそれをどう夢として伝えているか、リーダーのコミュニケーションスタイルも勉強になった。そして、海外での実プロジェクトにより、異業種、異言語、異文化でも、自分にも「もしかしたら」できるのではないか、という可能性を感じることができる。この実体験に基づいた自信が夢に現実味を与えてくれる。ということで、夢のサイズが大きくなる。
 

知識だけならば本でよい、が、それでも毎年日本国外のフルタイムMBAに行く人はいる。やはり百聞は一見にしかずだし、更にただ見るのと実際にやるのでは全然違う。MBAに知識を取得しに来ようと思うと費用対効果がよくないかもしれないが、体を使って得られる知識以外のソフトスキルに、実は大きな価値があると思う。

August 11, 2013

うまい棒の味の違い

ドイツの日曜は教会の鐘が鳴り、のんびりした一日。法律で決められていて店が営業できないので(飲食店は営業可)、何もすることがない。やっぱり生活と宗教が不可分なんだろうな。

さて、仕事の話。やりたいことをやるのか、向いてることをやるのか、それはこれまでの社会人人生でも何度も考えたことで、今日も考えることです。マリア・カラスは、自分は自分の才能という主人のために絶対奉仕しなくてはならない、と言って歌に人生を捧げました。だから自分も人よりできること(向いてること)を、と言ったら後輩に「やりたいことより向いてることやるなんてナンセンス」とダメ出しされました。そういえば新庄は、小さい頃スポーツ万能で、何やっても一番だったけど、野球は例外で、一番思い通りいかなかったから野球を選んだと言ってた。

つまり何が言いたいかと言うと、何を選ぶかはその人の自由で、正しい答えはない、ということです。でも、とにかく、自分のことは自分で決める権利がある。最近特に思うけど、それってなかなか素敵なことです。しかもどっち選んだって大して変わらないことも多いし。なんだ、自分はうまい棒のサラダ味か明太味かの選択で悩んでたのか、世の中にはアイスもチョコレートもあるし、なんなら貯金とか、お賽銭とか、募金とか、そのオプションの幅に比べれば、所詮うまい棒なんてどっちでも同じだよ、とかそんな話。更に、その選択肢の幅に気づくのは案外しばらく経って振り返ったころだったりするし。まあでも、目の前の決断は、なんにせよ自分の腹に訊くしかない。

ということで、今自分にも、さっそくこれからの仕事の小さな決断が来ているのですが、それをいろいろこねくり回した挙句、あと数日で納得のいく決断をしようと思います。

August 1, 2013

ドイツへ赴任

このたび、勤務先の海外子会社に数年出向することになりました。その会社自体が各国に拠点を持っていて、グローバルに事業を行っていますが、ひとまずはドイツに行きます。役割はCFOの直下に就いて、戦略、財務、および各種インテグレーションをする模様です。とはいえいまいち仕事内容も多岐にわたりすぎるので、最初は新興市場にちらばっている孫会社の整理と、新規M&Aで成長戦略をつくって、案件を進めるところを任される予定。

卒業後一年働いて、だいぶ環境にも慣れてきたところで、良いタイミングなのかもしれない。現状の延長では得られない経験とは何か、今の自分に欠けているものは何か、という観点で考えてみると、自分としては、東京HQでの戦略検討・管理業務よりは、実業で汗をかく部分が欠けており、それは現場に行って得られる種類のものだろうと思っていました。もう一つは、やはり伝統的日系企業の性質として、責任権限がこの年齢では限定的であり、それが成長を遅らせていることは大きなリスクと感じていました。

なので、現時点である程度の裁量を持ち、グローバルに実業経験を積めることは大きな利点と感じています。日常的に日本以外のマネジメント層とコミュニケーションを取り、プロジェクトベースで物事を回していく経験を重ねられる環境は、恵まれたものだと思います。ここで成功体験を積み重ねておくことは、将来の機会を広げてくれるものだろうと期待しています。先日新しいアサインメントの先行業務として、地域CEOたちと会議をする中でも、まさに活きた経営課題を扱い、その中で成長する可能性を見いだすことができました。

出張で見たところ、ボストンよりは少し小さいけれど、思ったよりもなんでも揃っていて普通に生活できそうです。その後は別の国のオフィスに二重出向する可能性があり、なんだかまだ足場が定まりませんが、新しい仕事になることだけは間違いなく、何が起きるか楽しみです。

March 22, 2013

The world is flat or not

世界はフラットか?

漠然とグローバルと思い、ここまでやってきて、ようやく見えてきたことがある。英語でビジネスをするというファンダメンタルな部分はグローバルビジネス全般に思い描いていたことと変わらないのだが、その中身は、当たり前ながら一言にグローバルでは括れないのだなということ。これまで実際に経験してきた日本式のやり方と、MBAで学んだアメリカ式のやり方と、それを相対化することで見えてくるものは多くあったが、それだけでは世界中でカバーできる範囲はまだまだ限られているのだなということ。グローバル、アメリカの外は広かった。

例えば実際にイタリアとインドで働いてみて腹に落ちてくるのは、キャリアをヨーロッパで積むというのと、アジアで積むというのだけでも全く違うということ。乱暴な一般化であることは承知した上で、自分なりの理解を書きたい。これはもちろん消費財を売るのか、自分の業界のようにITをBtoBで売るのかによっても大きく変わるのだろうが、とりあえず自分の経験範囲ということでITの話を。

ヨーロッパは成熟市場であり、もちろん国により違いはあるものの、まだまだローカル市場の色彩が強い。効率化の余地はそこかしこにあるが、規制慣習文化によりなかなかそれが進まない。外からは入り込めていないし、逆に言えばヨーロッパは業界のベストプラクティスについていけていない。オフショアひとつとっても、ちっとも進まない。それは雇用に関する規制であったり、心理的な国内志向だったり、なんとなく自国で完結しようという雰囲気がある。市場統合も、濃淡はあるが全体としてはまだまだ進んでおらず、国によっては半分鎖国のように見えるところすらある。ローカル企業がまだまだ幅を利かせている。

伝統を重んじ変化に対して必ずしも迅速に反応しない、時には抵抗する人たちに、よそ者として人種の壁を越えて入り込み、一人称で能力を認められて初めて仕事ができる。仕事だけでなく歴史・文化理解も必要だし、根気強く物事を動かしていく辛抱強さも必要。地に足をつけ、じっくりと仕事をしていかねばならない。

一方で、アジアの専門家になるというのは、どちらかというと起業家的なスタイルが求められる。リスクを取ってビジネスを成長させていく。失敗する案件もたくさんあるだろうが、いくつかディスプロポーショナルな利益をもたらすものを得られれば成功。いろいろなことが整備されておらず、ビジネスの成熟度も低い中で、それを受容し、泳いでいくこと。不確実性を許容しどんどんドライブしていくことが求められる。

また、特にパブリックビジネスでは、清濁併せ飲み、潜り抜けていく根性が必要。国家主導型の大型プロジェクトは多いが、それにどう関わるか。ビジネス倫理を保ちつつ、現地ビジネスのやり方に倣わねばならない。Corruptionに巻き込まれる恐れは常にあるし、単純にナイーブになっても仕事はできない。明確な答えはない。新興国マーケット戦略は学校のケースでも多く学び、G-labでも体験したが、卒業後も実務で経験を重ねる中で、よりイメージがクリアになってきた。

どちらにも共通すること。言語の壁は大きい。イタリアではイタリア語、スペインではスペイン語、英語が公用語のインドだって、ヒンズー語ができないとビジネスは成り立たないというのを実際に体験した。もちろん通常のコミュニケーションは英語で行われるのだけれど、細かいところを調整、隙間を埋めていく作業は現地語で行われる。したがって、ふつうの日本人が日本の外でビジネスをやろうと思ったら、ローカル人材との協働が必須。英語だけでは完結しない、ローカル人材なしには成立しないビジネスの世界は、アメリカの外に広大に広がっていた。

情報通信技術に後押しされ、世界はもちろん急速にフラットになってきているのだろうが、虫眼鏡で見ればでこぼこだらけ。自分自身も一絡げにグローバル、ではなく、少なくともどの地域で、というのを選んでいかなけらばならない。

February 25, 2013

MBAの価値再考(その2)

MBAで得られたものとメリットの再考。後半は、人に伝えるメリット編。

「MBA」のメリットとして、ここでは自分の経験に基づき、1) 職務経験のある人が、2) 米国MBAに、3) 2年制フルタイムで、行くことを想定して書いている。もちろんそれ以外の場合にもあてはまることは多くあるだろうが、MBAに関するあらゆるオプションを想定しているわけではないことをあらかじめお断りしておく。

1. キャリアチェンジの機会設定

MBAをオプションとして検討する人は、基本的に自分のキャリアの現状を変えようとしている人だと思う。それが転職であるか、それとももう少しソフトなレベルかは人によって異なるだろうが、少なくとも現状に完全に満足している人ではないはずだ。現状の延長に行き詰まりを感じていたり、成長のスピードが落ちていると感じたり、今後のキャリアに漠とした不安を覚えたり、明確に転職したい業界があったり、そんなことはキャリアの節目節目で多くの人に訪れると思う。MBAは、そうした人々に対して、明確な機会を与えてくれる。これは間違いない。そもそも合格した瞬間から壮行会と称してコンサルや投資銀行などがアプローチしてくるし、人材エージェントもコンタクトを取ってくる。1年生と2年生の間にはインターンシップの機会があるし、2年後には次の働き口を決定しなければならない。私費社費で制約要因が異なるためその濃淡は変わるだろうが、いずれにせよキャリアに変化をもたらしたい人に、MBAという装置は十分な機会を提供してくれる。


2. インプット機会の最大化

ある程度職務経験を重ねてきて、スキルセットの棚卸と強化をしたいという人は多いだろう。MBAは、そうしたニーズに応える格好の装置だ。というのも、アカデミアは(学生にとっては)究極的には学ぶところであって、成果を出すところではない。組織にいると、とにかく短期間のうちにアウトプットを出すこと、成果を上げることを求められる。全ての自分へのインプットは、あくまで短期のアウトプットのための燃料であって、長期的に役立つかもしれない、というようなことは興味がない(あるいはあっても余裕がない)。ましてや実施したこと得たものの定着化などやってる暇はまったくない。一つが終わったら、慌ただしく次に移っていく。しかし、職業人として継続的に成長していくには、On-the-jobとOff-the-jobの両方のトレーニングが必要である。そのまとまったOff-JTの機会をMBAは提供してくれる。2年間を使って、次に飛ぶための在庫づくりができる。社会人としてキャリアを重ねてきた人には、そこで学ぶことは必ずしも新しいことばかりではないかもしれない。しかし全て知っていて、実行できるという人はいないだろうから、新しい学びは必ずある。異なる業界、異なる地域のクラスメイトからの学びも大きい。そして自分の得意分野についても、クラスやチームで人に伝えるというプロセスを経て、真の意味で定着化させることができる。MBAというプログラムで、現場を離れて集団で学ぶことの意義はここにある。


3. 仕事を離れる時間

最後に、MBAは、社会人にとって、これまで仕事によってやれなかった他のことをやる時間をくれる。それはプレッシャーから解放されてリラックスする時間だったり、家族と過ごす時間だったり、体を鍛えなおす時間だったり、趣味に没頭する時間だったり、新規事業を始めるための時間づくりだったり。いずれにしても、目の前の仕事という、自分が多くの時間を費やし重要だと思ってきたものを一歩引いて外から眺め、価値を相対化する。あれほど重要な役割を担っていると勘違いしていたが、自分がいなくとも会社は問題なく回っている。私一人が生産活動を止めたところで、世界経済は意にも介せず今日も淡々と回っている。そして個人にとっても、仕事は、当たり前だが人生のすべてではない。MBAを人生の夏休み、と称した友人がいたが、恐らくは人生最後の、そうしたChange of paceの機会をMBAは与えてくれる。


もちろんこれらのMBAの与えてくれるメリットと同時に、機会費用は考える必要がある。MBAの2年間によって失うのは実務経験であったり、アプリケーション準備にかかる費用、学費生活費(生活費はどこでもかかるが)、その間に働いていたら得られたであろう給与の合計額であったり、準備期間のプライベートライフであったり、やはりいろんなものを捨てなければいけない。何かを得るためには別のものを捨てなければいけないというのは当然のことだが、それが自分にとって受け入れられるものか。それでも行きたいと思えるか。だいたいキャリア上の短期の費用対効果で言うとMBAはペイしないので、その観点ではNo goなのかもしれないが、自分としては、人生でいくらお金を払っても、他では手に入れられない時間をくれると2年間を過ごしてみて思った。MBAという商品を、お金を払って買ったのだ。楽しんだのだから、バランスはマイナスになって当然だ。なお、仕事上のキャッシュフローで見ても、それが長期でペイするかどうか(しなくとも全く問題ないが)、それは自分のこれからのキャリアの積み方にかかっているのだろう。

ということで、これが「大金使ってMBA行くことのメリットってなんですか?」と真剣に尋ねられた場合の、現状における私なりの答えである。

February 24, 2013

MBAの価値再考(その1)

まだ1年は経っていないけれど、少し離れて感じるMBAの価値、自分が得られたものと人に伝えるメリットの再考。2回に分けて書く。

まず今回はMBAで得たもの、個人的な学びというよりは、武器という観点で。Bスクール使用前使用後で、何ができるようになったか、周りからは何が変わったように見えるか。

1. グローバルチームで働く力

まずこれを一番に挙げたい。留学前は機会もなかったし、能力としてもできなかったこと、それがMBAの2年間を通じ死ぬほどチームワークを繰り返したせいで、地力が上がってきていると感じる。思えば留学直後のチームワークなんて悲劇だったわけで、チームに対して何のバリューも出せなかった。そこから考えると、確実な進歩が見られる。コミュニケーションのベースとなる英語力。チームとしてのゴール設定と共有、期限の明確化。明文化するか否かはケースバイケースだが、チームチャーターの設定、すなわちチームとして何を大切にするか、働き方や大切にすることの確認。日々の議論のファシリテーション。チームのモチベーションの維持とコンフリクトの解決、予期せぬ出来事への対処とそれに伴う計画の修正。息抜き、無駄話。

こう書いてみると、ほとんどは当たり前のことで、グローバルチームうんぬんに限らないユニバーサルなチームスキルのようにも思える。しかし、実際に経験してみて、学校でこれをグローバルチームでやることは本当に難しかったし、だいぶ苦労してコツを体に叩き込んできた気がする。例えば在学中、Japan Clubの活動で日本人が集まり物事を進めるときは、共有しているものが多いから本当に効率が高かった。アメリカのスポーツカンファレンス企画で、アングロサクソンがほとんどのチーム運営も、我々が1年生の秋学期にコアチームとして割り当てられたグローバルチームに比べるとはるかに効率的だったと聞いた。つまり、グローバルチーム運営は日本人だけの課題ではなく、ほかの人種にとっても、英語が苦にならなくとも、ついて回る課題なのだ。そもそもの常識が違う中で、立場上の権力を行使せず、お互いに納得できる点を見つけ前に進めていくこと。これは本当に難しく、もちろん授業ではそうした際のセオリーを学んだりするのだが、それを得たうえで体を使って、時間をかけて学ぶしかないと感じる。

その意味で、G-labはそれだけでもMBAの価値があったというほどに有意義な経験だった。今のイタリアでの仕事も、結局全く同じ。多国籍チームでの期限切りプロジェクト。いかにコアチームの経験があると言っても、今振り返ればまだそれは入り口に過ぎなかった。もしG-labやってなかったら、どれだけアメリカで学んでも日本に戻ったらただの日本人のままで、今はなかったなと心から思う。チームメイトと24時間一緒にいて、さんざんプロジェクトのことを考え、毎夜街に繰り出し、週末は旅行する。たくさん飲み、キャリアのこともプライベートのこともたくさん話し、たくさん喧嘩し、たくさん分かり合う。それだけ濃い経験だったし、それぞれの強みを活かすべく、メンバーを尊敬し支えあう、ということの意味とやり方を体に覚え込ませられたと思う。


2. 経営に関する広く浅い机上の知識

これはどちらかと言うと自分の実感というよりは周りの目ということなのかもしれないが、MBAは経営一般について学ぶわけで、それを得てきたものとみなされる。例えコーポレートファイナンスにフォーカスを定めてオペレーションやHRの授業をまったく取らなかったとしても、周囲の人は、「えむびーえー」なら経営に関すること一渡りのことは全部わかっていて当然、という目で見て、接してくる。もちろん実務レベルには及ばなくとも、教科書上の基本は押さえているはず、と。一方、業界のことは網羅していることは求められない。鉄鋼業界もエネルギー業界もIT業界も全部わかっているはず、とは思われない。だから基本的には、MBA出てきたならコンジョイント分析なんて説明しなくてもわかるよな、とは言われても、新薬開発の最前線のことわかるだろ、とは言われない(はず)。

そして現場業務でもそうした前提に基づいた期待がある。私の場合も「MBAならこういうの得意でしょ」と海外グループ会社の財務資料一式渡されて、フリーハンドで分析をさせられる。世界でどの地域が魅力的かのマーケット調査を命じられる。M&Aの案件に横から突っ込まれる。インド人連れてイタリア行ってよろずよろしくやってきて、ということを当然のように期待される。その分野は門外漢、とは言えないから、はったりでやる。

ちなみに経営知識というのは、視点も含む。経営者がどのように考えるか、ということだ。何をしたら会社の利益が上がる、とか、何をしなかったら会社が傾く、とか、そういうこと。自分がやっていることは、会社の利益につながっているか。そうでなければ給料泥棒だし、泥棒の額が稼ぐ人の額を超えたら会社はつぶれる。例えばスタッフ部署にいたとして、周りの人は皆そのことを意識しているか。幸いなことに、MBAでは、お前は社長として何をする?と問われ続けたり、一流経営者が山ほど来て話を聞く機会があったり、というのがボディブローのように効いている。ただ、MBAで経営視点が身に付きました、というと感じが悪いのでそうは言わないほうがいい。あくまで、経営に関する広く浅い机上の知識。


3. ソーシャルアセット

○○大学のMBAです、ということの社会的意味は大きい。その効果は社会に戻って実感している。肩書から、アクセスできるネットワーク、世界中にいる直接の友人まで。周りに対して発するサインというか、属するコミュニティが増えたということと言ってもいいかもしれない。お前○○中か、から始まり、え、あのアーティストライブ行くほど好きなんだけど、とか、あなたもゴルフやられるんですか、でもなんでもいい。それと同じようなものが、留学とかMITとかMBAとかそういう括りで増える。その共通項を得ること、コミュニティに属するようになったことは、単純だが留学前と後の明確な違いだ。

まず肩書だが、特にアメリカで仕事をすることになると、大学名や学位が有効になってくる局面がある。WASPのエスタブリッシュトなサークルに玄関を開いてもらうために、アメリカの高等教育機関の共通点を出せることは大きい。そもそもアメリカのマネジメント層はMBAを持っていることが多いから、肩書の恩恵を受ける場面はミーティングやカクテルパーティなど、想像以上に多いだろう。そしてこの肩書は、背が低く胸板が薄く言葉が完璧でない日本人がアメリカ人一般になめられないためにも役に立つ。アメリカ外でも、MBAは効果を発揮する。例えばインドでは、大学卒は日本のように十分な学位としては認められないらしい。卒業後アドバンストエデュケーション(必ずしもMBAである必要はない)を受けることで初めてまともな職に就けるようになるとのこと。Master Degreeを保有していることは、十分に教育されたビジネスパーソンであることの証左になる。その他、いまヨーロッパで仕事していても、お前どこで勉強したとか、大学名は何だとか、ことあるごとに聞かれる。自分がすごいわけでもなんでもなくて大学がすごいというだけのことなのだが、その時に簡単に信用を得られる肩書は便利だ。

ネットワークも、直接間接で役に立つ。在学中、アメリカでインターンシップをさせてもらったのははるか昔のSloan MBAの卒業生だし、インドネシアで車上荒らしにあった際も、在インドネシアアメリカ大使館のSloan卒業生がいろいろと助けてくれた。日常的にも、何か助けを得たいと思ったら、MITの卒業生データベースInfinite Connectionにアクセスしてふさわしそうな人にアプローチすればよい。技術や理論のことで知りたいことがあれば、お世話になった教授でも知らない教授でもなんでもメールなり電話なりすればよい。例えばSloan外でも、Media Labに行けばどんどん人をつないでくれる。この世界レベルのコミュニティは、関係者の特権だ。

直接の友人。これは日本人外国人を問わず、また自校他校を問わず、MBAを通じて知り合い仲良くなった友人たち全て。何かあった時に連絡をくれ、こちらからも気軽に連絡ができる仲間。自分の晴れの日にわざわざ海外から駆けつけてくれた盟友。悩んだりした時にもすぐに相談でき、支え合える同志。損得勘定で付き合うのではなく、単純に一緒にいて居心地のいい、心の許せる友人たち。自分にはそういう仲間が世界中にいるんだということは、例え頻繁に連絡を取り合わなくとも、日々の心の支えになる。これは武器という性質のものではないかもしれないが、それ以上に大切な資産だ。

最後に、「えむびーえー」という肩書への周りの目に対し、恥ずかしくないよう日々精進していくこと。これはもうその学位を取ってしまった以上生涯逃げられないことで、自信を持ち、謙虚さを忘れずに、手を抜かずやっていかねばならない。そうした心構えは、使用前使用後の変化。


留学前と比べて別人になれているか、というと全然そんなことはないけれど、やはりMBAのおかげで内にも外にも変化は起きている。日本に戻った際はそこまでは感じなかったけれど、イタリアで働いてみて、変化を再認識した。

February 20, 2013

10年後の人材価値

今日時点で、日本の外で、日本語を使わなくともビジネスの世界で何かできる、というのは徐々に自信になってきてる。本当に日々のことで言えば足らないところは痛感するし、日本語に比べて全てにおいて効率が悪いからもっともっとできなければいけないのだけれど、それでも一言でいうと、まあなんとかなってる。

一方で、「一生メシ食っていけるか」ということは手ごたえ半分、不安半分。

こちらヨーロッパで働いても実感するけれど、英語は本当に武器になる。特に日本のジョブマーケットではまだまだいける。企業がグローバルに市場展開しようと思ったら、どんなに内部オペレーションを英語で統一しても、ローカルのGo-to-market部分でインタープレターとしての役割は残る。それは外資が日本マーケットを統括するケースでも、日系企業が海外現地オフィスを統括するケースでも、いずれの場合でも当てはまる。したがって、英語ができる日本人の需要は(面白い仕事かどうかを置けば)10年経っても引き続きある。上意を伝達し、確実に遂行する。その意味では、まあ極端な話、ある程度の英語さえできればどこかでは食っていける気がする。需要と供給のバランスが悪いというだけのことだが、そうした高級通訳人材は求め続けられる。今の自分の役割もそんなもの。

一方で、英語が当たり前に使えることが前提の仕事環境では、真の意味でのビジネス能力だけが差異化要因になる。本当にグローバルでの人材競争。国籍肌の色なんか関係なく、要は1円でも多く持ってこれるのは誰かという競争。天下一武道会。そこで生き抜き、スタンドアウトするための能力とは何か。前回も書いたように、飛び抜けた何か、例えば市場の臭いをかげるトレーダー、クロスボーダーディールに長けたFA、国際連結決算ができる会計士、グローバルでのインダストリーエキスパート、あるいは現地マーケットで太い人脈を持った人。そうした国を超えて評価される専門性か、あるいはCOO・CFOパスに乗る組織運営能力か。それはまだ何も持てていない。

かなり乱暴に言うと、企業から見たMBA卒業生のセールスポイントは、1)若くて(Juniorレベル)、2)アスピレーションが高く(よく働く)、3)英語ができて、4)モビリティが高い(中途採用できる)、の4点だと思う。そのうち、早晩1は失われ、2もただ単体で長時間労働すれば価値が出るものでもなくなってくる。その時残るのは3と4だけ。それでも雇ってくれる会社はあるのか。例えば卒業後10年たっても、引き続き引く手がある人材になるためには、どのようにキャリアを積んでいけばよいのか。

使い減りしない優秀な人材、から、財務的なインパクトを生み出せるマネジメントに変容していかねばならない。しかもその能力をポータブルにする必要がある。特定組織内の政治に長けているとかでなく、この人は、どの会社でもマネジメントとして成果を上げることができる、という中身のある(したがってジョブマーケットでも評価されるような)人材になるために、今日何をすべきか。自分は正しい道を行っているか。成長のスピードは十分か。そんなことを自分に問う。正直自信がないけれど、それでも夢想せずないものねだりせず、目の前のことに向かうしかない。

January 25, 2013

お前の役割は何だ


イタリアでの仕事が進行中。

卒業半年。仕事は、少しずつ世界中どこでも一人で素手で戦える自信がついてきた。いや、それも今はグループ会社に行って、本社の人って思われてるから英語のたどたどしいアジア人でもやれてるだけかもしれないが、少なくとも2年前よりは進歩していると感じる。

もちろん、何ができるというわけでもないから難しい。ロケットでも洗剤でも売れる営業マンとか、プログラミングの鬼とか、とにかく労働法のプロとか。今後本気でグローバルで一人称で戦っていくためには、言葉以上に、世界に討って出れる武器を持つことは大切なのだろう。今回は経理のプロのインド人と一緒に駐在しているが、インド人はわかるけどお前の役割はなんだと真顔で訊かれた。

でもじっとしているわけにいかないから、とにかく前に出て、はったりで自信ありげにふるまう。できるかどうかわからないけど、これをやると宣言し、ものごとを前に進めていく。人を巻き込んでいく。自分ひとりで働く分には恐らく能力はあまり変わっていないのだろうけど、人と働く力が少しながら進歩しているかもしれない。人と力を合わせて何かを成し遂げよう、そのために自分がKey roleを担おうと意識し、行動すること。

結局この歳になると人にどう働いてもらうかが鍵になってきて、それをリーダーシップと呼ぶかポジションに甘えた怠惰と呼ぶかは別として、そういうのは大事なのだろう。自分が今回の業務のプロじゃないから、インド人に働いてもらうしかないとか、イタリア人にも仕事してもらわなきゃいけないとか、それを国境を越えて、少なくとも形だけはできるようになったのは、MBAでチームワークを1000本ノックした成果のように思う。

なんにしても、直近3年では半年しか日本にいないわけで、海外旅行感も薄れ、世界どこでも同じだなとか、良くも悪くも新しさがなくなってきている。それがあまり浮わつかずに仕事ができるようになってきたことのベースにあるかもしれない。とはいえ生活の不自由さは全く解消されないけれど。ルッコラってアルファベット発見したからサラダを期待して注文した品が、メインエビでサブがルッコラだったりとか、今はそのレベルでイタリア語が暗号。もし中学校から英語でなくイタリア語を習ってたら、イタリア語環境のほうが快適だっただろうか。

January 19, 2013

スターバックスがない国


仕事でイタリア滞在が開始。

スターバックスがないこの国で思うこと。いかにアメリカに無意識に影響を受けていたか。この国では英語が通じない。標識が英語でないので読めない。仕事はまだみんな英語だから何とかなるけれど、街に出たら全然。イタリア語しか書いてないメニューでイタリア語しかしゃべれないウェイターに注文するのがこんなに難しいこととは。しかも、イタリアンしかない。週7でイタリアン。

大都市ミラノにあっても店もみんな個人商店みたいなところばかりで、チェーン店もコンビニもないって、やはり相当に不便。無意識に大規模小売の恩恵を預かってたんだなと思う。

あとこの国は蛇口ひねったらコーヒーなんじゃないかってくらいコーヒーが出てくる。一つのミーティング中に二回エスプレッソが運ばれてきた時に、イタリア人とコーヒーは不可分だと確信した。

男も全員ジローラモなわけではないのだね。割にタイトな服を着るのは皆そうみたいだけど、思ったよりギラギラじゃない。